私の半生と神学部
高校一年生の冬のことだった。祖父が亡くなった。両親が共働きで、家族の中で一番一緒に過ごす時間が長く、おじいちゃん子だった私のショックは大きかった。亡くなってから半年は、毎晩のように祖父を思い出しては泣いていた。これまで、考えもしなかった、「生」や「死」。そして、通夜、葬式、法要を通して「宗教」について考えるようになった。
そんな時、法要のたびに僧侶が唱える、これまで意識してこなかったお経の意味がふと気になり始め、自分の宗派の勤行のCDを通学中に聞くようになった。また、お経の意味について解釈してある本を読むようになった。この過程をとおして、自分の家の仏教の宗派が何であり、仏教の根本的な考え方を知り、祖父の菩提を弔うために寺社に赴くようになった。
また、仏教以外の宗教にも興味を示すようになり、元々世界史が得意だったことも相まって、一神教や多神教、二元論的な宗教に関する本を読み漁り、それぞれの宗教でどのような立場の死生観をとっているかを調べるようになった。
このような経緯を自分が高校二年生の祖父の初盆にクリスチャンの祖父の兄弟に話すと、キリスト教に関する様々なことを教えてもらった。
それから数日すると、祖父の兄弟から自宅に遠藤周作の「イエスの生涯」という本をプレゼントとして郵送してもらった。それからしばらくの間、制服の内ポケットにその本を入れ再読に再読を繰り返しキリスト教にたいへん関心をもち、聖書を毎晩寝る前に読む習慣ができた。
高校三年生になり、受験期を迎え、同志社大学神学部のOBである佐藤優の「同志社大学神学部」という単行本を読んでいた父に勧められ、同学部を志望し入学した。
神学部に入って二年が経った。 私は科学万能な現代社会であるからこそ、科学で説明できない死や生について扱う宗教の重要性は増していくだろうと考える。
神学部で自分自身の学びを深めていく中で、私の一番根本的なテーマである宗教における死や生に対する自分なりの答えを見つけたい。